Yoshihiro Someya    /

Readingについて

11 August 2025
re-edited: 20 August 2025

「カードをいくら切っても出るカードは変わらないよ」
  - 私の守護たちより -

私はリーディングに際し
タロットのマルセイユ版が軸としてOswald Wirthのタロット分析をベースとして独自に展開しています。
若い頃からEliphas Leviを私は他の芸術家同等に重要視していたのでClowleyのトートタロットも範疇としていますが、
現在多く利用されているライダー=ウェイト版は基本的に対象にしていません。
そして通常のカードリーディングとは若干異なる方法も試みています。
私はこのタロット/オラクルカードは「魂との対話する道具」「宇宙の構造を知る図面」として考えています。
その対話を言葉として説明しない限り現実的にはそのカード以外何も存在しないことになります。
しかし「あること」はすでに存在していてそれを単に言葉として発することもできますが、
意図的にそれをせずに出来る限りそのままの状況を伝えるという試みもできると考えています。
又、私は「チャネリング」という言葉が「スピリチュアル、ニューエイジ」同様あまり好きではないので
以前から使われている「霊視」という言葉を使っていますが、これもタロット本来の元々意味合いからの解釈ではなく、
選ばれたタロットでその時の状況や感覚、直感/霊感などから得られるイメージや言葉を大事にするというものです。
もちろんそれは単に脳/身体の機能的事情や心理的な何かなのかもしれませんが、
私はこういった分野を実社会で学術的に実証するというタイプの傾向にほとんど興味がなく
そのままの「あること」を自身で分析して行くことにしか関心がありません。

長い間(実際は10年間ほどブランク期間があります)、
現代音楽/芸術を基軸にフリーランスとして自己表現を展開してきましたが、
芸術と「もの」は密接な関係がありその物質を駆使することに固執するようになると
当然ですが資本経済に左右されることになります。
芸術が極端に一般大衆化することで本来の抽象性や概念性に「答え」が得られないものには興味を持たなくなります。
一方その「答え」を標準=統制化するようになり、違うものを排除していくことになります。
特に近代以降更に学術的根拠が作品の創作価値以上に必要になって来ています。
これはタロットの分野でも同様の傾向が見られると考えていて、
特にライダー=ウェイト版利用者やカバラ、数秘術支持者に多く見られる
まるで学校教育のようにグル、ガイド書の節操なき乱用とその物質経済的標準化などです。
一般的によくある占いは先物、占星術に多く見られる統計ビジネスの一環でここでいうリーディングとは異なります。
占い師に尋ねるより人工知能に聞いた方が的中するし、満足が得られるかもしれません。
(正直、私自身これらの点に疲れ果ててしまっていますが)これらのステータスが徐々に崩壊しかけているという現実や、
Eliphas Leviも私がリスペクトするHelena Blavatskyもそれぞれ時代的背景や神聖な分野への立場や解釈の違いはあるものの、
共通している点として陰秘学、神智学の(商業的/科学的)ポピュリズム化とその低俗化を指摘しています。

Oswald Wirthは1927年の彼の著作の中で
神智学的に8番の「justice」を -自然の働きがもたらす「手」-(The hand of the operations of nature )と題して、
芸術は自然に奉仕し、「自然の法則」は注意深い芸術家に物事の不動の秩序に反するものは引き受けさせないよう強制する。
芸術家は"宇宙に秩序をもたらす知恵と意図の一致"をその「手」を利用し表現するよう努力すると解釈しています。
この職人技術のたとえである「手」をreader(読み手)、reading(読み事)と私なりに解釈するならば、
ここですでに必然的に、当然に、「あること = 自然の法則」がすでに存在していて、
場合によってはその結果や説明も要らないと考えているわけです。
目にも耳にも残らないある存在をそのまま「直感」を得て、それを「感じる」ことがとても重要だと思っています。
ここでいう私の立場は単に「読み手」であり「送り手」に過ぎないからです。